3月26日

うちのトイレはちょっとユニーク。他の家にはないものがある。小さい団地サイズのトイレだけれど、壁に書き込み付きのカレンダーが貼ってある。このカレンダーは、忙しくて顔を合わせて話すことが出来ない娘との連絡ツール報告ツールにもなっている。この大型カレンダーを使うようになって、四年くらいになる。娘が細かく記入してくれるのを読むのがとても楽しい。

このカレンダーは、忘れてしまいがちな日記代わりにもなる。狭い壁に去年と一昨年のカレンダーも貼ってある。だから去年の同じ日に何があったか、一昨年の今日は何をしていたか。読み比べるととても面白い。振り返って足跡を眺めるのが、いいことかどうかわからないけど、確かに生きてきた時間を思い起こせるので、しみじみと感謝する時でもある。

このコロナが侵入してきたのも、記録してある。救急車で搬入された日も思い出させてくれる。人間の記憶は、こんなふうに文字にして記録しなければ忘れ去られるほどに脆いものなのか?記憶が脆いということは、生きている時間の重さが思ったほど貴重ではないということなのか?過去は過ぎ去ったこと。今だけが実感ある現実なのか。掘り起こして味わい直すほどのものではないのだろうか。テレビを見ていたら、「なたには取り戻したい過去がありますか?」という言葉があった。

例えば、10年前の地震津波で一瞬の内に家族を奪われた悲しみは、時間と共に薄れるだろうか?目の前の事故で愛するものを失ったら、カレンダーを見なければ思い出さない過去になるだろうか。

つまり、私の心を支配する喪失感は、文字にして刻み続けなければ忘却できる程度のものなのか。忘れることが出来る程度のものなのか。過去にしがみついているのは、その思い出を甦らすことで、自分の鼓動を感じて生きていたその頃のことを、支えにしているということか?

札幌の積雪ゼロが発表された日。今年の冬は終わった。