6月12日

なおちゃん随分お休みしてしまったね。ごめんね。もう二ヶ月くらいかな。一日だってなおちゃんのことを忘れたことはなかった。朝起きるとなおちゃんにおはようと言い、買い物に行くときは、なおちゃん一緒に行って私を守ってねと言い、思うように動かない身体を持て余して、半分死んだような時は、なおちゃん助けてと頼み、一日が終わるときは、なおちゃん休もうねと語りかけながら過ごした。

もう夏です。暑いのが大嫌いななおちゃんには、酷な季節だね。どんな生活をしているのだろう。不自由なところはどこだろう。最近脳外科の世界は驚くほど進歩しているから、脳梗塞で倒れたなおちゃんもきっと想像以上の回復をしていると思っています。それは同時に不自由に直面して工夫して生きることでもあるだろうから、苦しい現実だなと思う。なんでもできる人だったから、勇敢に挑戦する人だったからとても辛いだろうなと思う。

なおちゃんとは比べようもないかもしれないけど、私も「老い」という障害の前で立ち竦んでいます。努力で克服できない、思いもよらない不安と絶望。みんなが通る道だと思うけど、その速度の速さに怯えています。こういうこと、一緒にぼやきあいたかった。励まし合いたかった。70年の長い時間の中で、きっと今こそお互いに支えあいたい時代に入っているように思うのに、なおちゃんは今どこにいますか。あなたの心は今どこにいますか。

4月4日イースター

直ちゃん、今日はイースターと言う教会の祝日でした。イエスさまが磔の刑について3日目の今日、蘇られたと言う日です。私たちクリスチャンはこの復活を信じています。本当に信じているの?と聞かれたら、信じているよと答えるかどうか。ただ、何にも確かでない嘘だらけのこの世で、何か一つくらい本気で信じるものがないとね。そして信じて祈るものがないとだめなんだよね。それが私たちにとっては、イエスキリストの復活です。

このアパートに住んでいる友人。よくしてくれるんだよね。その人の息子さんが通勤途中で交通事故に遭って、意識不明のまま一年くらい面会も出来ずにいたの。その息子さんが、今日の牧師の説教をLINEで聴いて、涙を流したと看護師さんから電話が来たんだって。息子さんはイエスさまの復活を信じていたから、イースターの説教を聴いて泣いたんだと思う。ああ、死から蘇られたイエスさま。それが今日だということを信じているからこそ、自分にもある命の光を見たんだろうね。年老いた母親のことも、きっと心を痛めているのだと思う。そして復活を果たして私たちの恐怖を取り除いてくれたイエスさまを心から信じて頑張っているのだと思う。

それを話してくれる友人の笑顔が美しかったよ。私も再び直ちゃんに会える日を信じて待とうと心から思った。直ちゃんは無神論者なのかどうか、考えてみたらそういう話しはしなかったね。でも私がクリスチャンであることを知っていた。ずっと共にいてくれた。

直ちゃんは幼い時から、父親のいない家族を守ってきた。きっと自分の荷物は人に預けないで自分で背負うと言うだろうな。そういう責任感というか雄々しさを持っていた。それが肩意地はった強がりではなく、生きる姿勢だった。頼るべき父親もなく、弱音を聞いてくれるような母親ではなかった。おかあさんと一緒に家族を守ってきたんだよね。結婚して頼りになるご主人と子どもたちを与えられたけど、直ちゃんは相変わらず自分の足で歩いていたように思う。

今、どのくらい回復したのかわからない。でもね。私はアパートの友人の笑顔に励まされた。イースターを信じた。奇跡はあるとその友人は言ったんだよ。信じて祈る方が強い。必ず直ちゃんからの手紙が届くと信じて待つよ。だって、私はクリスチャンだもの。イエスさまの復活を信じるクリスチャンだもの。

4月3日

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アパートの駐車場、冬の名残の残雪。毎年この冬の思い出をグラム幾らかで売れないかなと思ってしまう。そのくらい、懸命に寄り添って生きた冬の季節を愛おしく思う。駐車場のコンクリートが現れて、ほんのひと握りに姿を変えても、雪に閉じ込められた冬の厳しさ私は忘れられない。

春の来ない冬はない。朝の来ない夜はない。誰もがそう言うけれど、冬の真ん中にいると一生この雪は無くならないのでは?と思ってしまう。でもこうして必ず雪は溶けていく。季節は不思議だ。自然は不可解だ。穏やかに優しい空気を、恐れずに吸い込むことが出来る春。このストレスのない季節は、やがて地面を焼き尽くすほどの暑い季節にバトンタッチする。このコンクリートも、日中は灼熱の太陽に焼かれる。

直ちゃんは夏が嫌いだよね。暑さが苦手で、家の近くにある公民館に避難すると言っていた。今年の夏は病院にいられるといいね。病院はイヤだろうけど、適温をキープしているのは病院。体力が落ちている時は、冷房が強すぎず弱すぎない病院は快適だよ。

今日は歩行器を押してスーパーに買い物に行った。運動を目的にしているけど、スーパーは魅力的だ。ついお金を使う。見切り品になっていたマンゴーを買った。沖縄で食べたマンゴーが美味しかった。フィリピンのマンゴーはどうだろう。漬物も買った。教会の友のためにゆで卵も買った。明日はイースターだから。

4月2日

カレンダーの絵が新しくなって、春が満開。東京方面の桜は満開のようだ。直ちゃん病院の窓からは何が見えますか?桜の花びらがはらっと入ってくるといいね。

今日は教会にとって一年の中で一番大切な日だ。教会と聞けばクリスマスを思い描く人が多いかもしれないけど、まだ他にも大切にしている日がいくつかある。聖金曜日。good Friday。何故イエスさまが十字架にかけられて死んだ日をgood Fridayというのか?

札幌教会からオンラインで聖金曜日の礼拝が配信された。私がクリスチャンとなったのは、札幌教会だ。30年以上も前のことだけど、忘れられない。そのことによって、その後の人生は苦しいことが多かった。それは全てこの日を良き日というところに起因するようだ。今日から三日後をイースターと言う。イースターは教会にとって嬉しい日。いや、教会と全部を括ってはいけない。宗派によっては、よみがえりを信じないところある。それにしても、イエスさまの復活は聖書に記されている。若い頃は夢中になって聖書を学んで知識を増やすのが楽しみだったけど、もう知りたいと思うことはない。何も知らなくていい。ただ信じたい。たとえ十字架にかけられるほどの苦痛があっても、そんな時でも信じたい。悲しみも苦しみも痛みも激しい憎しみも、それでも信じられる力が欲しい。

お二階の友が白玉入りのお汁粉を持ってきてくれた。昔、母が作ってくれたような、懐かしいほのかな甘みが体の痛みを和らげてくれた。

今日はイエスさまが十字架にかけられた。それを見上げる母の名はマリア。どんな苦しみだっただろう。息子が、罪もない息子が十字架にかけられている。その苦しみの中でマリアは歌う。マグニフィカート、マリアの讃歌。

3月31日

自分の足で歩いたという感覚はない。空港にある歩道、乗っかると自然に動いて終点に着く。そんな感じで三月も終わる。世の中の動きは激しい。特に去年から続くコロナ騒動で、全ての時間が動かされているような感じだ。東京も大阪も恐ろしいほどの感染数が続く。何故?と思う。怖くないのかな。警告を無視して飲んだり食べたりするからこういうことになる。ねえ、怖くないの?

私は警告に従っているわけではないけど、それは単に足が動かないからなのだけど、一日中ぬりえをして過ごしている。スマホのアプリにぬりえというのがあって、それは際限なく毎日新しいのが提供されている。色の指定があるのでただパレットの番号に従って塗りつぶしていく。技術はいらない。必要なのは根気と時間だけ。その二つはある。時間なんて持て余すほどにある。

完成すると素晴らしい一枚が出来上がる。こんな絵が自分の手で描けたら幸せだろうけど、それは全く無理。ただ命じられたことを命じられた通りに黙々ととこなす。ぬりえ。たくさんの趣味と言われるものには刃向かった。どれも身についていない。ぬりえ。なんて私に相応しいことか。思えば私の人生そのもののように思う。

こう書くのはちょっと厚かましいかもしれない。私は塗り絵のように、従順に与えられた色に染められはしなかった。いつも何かに抵抗していた。いつも果てしなく遠いものを夢見ていた。身の程知らずの見果てぬ夢に疲れていた。そんな人生の最後にぬりえと出会った。この塗り絵のように、与えられた色に素直に染められていたら、ただ運命を受け止めて、完成するのを黙って受け入れていたら。そんなことを思いめぐらせながら、今日もせっせと色を塗る。

直ちゃん、あなたの人生は常に開拓精神に満ちていたね。チャレンジの人生だったね。きっと今、少し休みなさいという神さまの配慮なのかもしれない、なんて私は言わないよ。分かってるよ。辛いよね。苦しいよね。頑張ろうね。ぬりえを見せてあげるからね。