3月30日

今日、年若い友人からいいメールを送ってもらった。ある訪問看護師さんの文章とのことだった。

「死に目っていつですか?」という問いかけのような問題提起のような深く考えさせられるものだった。その友人は娘の大学時代からの友だち。そして、娘が私を介助しているのと同じように、母親の介助をしながら会社を立ち上げて働いている。その文章を送ってくれたのは、私も又、かつて両親の介助介護をし天に見送った経験者だから。いろんな思いを共有できる者として、慰めや励ましを届けてくれたのだと思う。

もしかしたら、死に目に会えないこともあり得るという覚悟に似たものを抱えながら、老いの進んだ母親を一人残して出社する娘たちの思いにも寄り添ったその文章は、残される私たちの孤独や不安に残る最後のものを、柔らかく暖かい言葉で与えてくれていた。訪問介護という死と直面する仕事の中で、こんなにも思いやりのある言葉を紡ぎ出す人に、無知らぬその人に、そっと手を合わせた。

娘たちも又、一人で過ごす母たちへのやるせないほどの愛惜を抱いているのだと改めて思い、何度も読み返すその文章が涙で揺れた。

直ちゃん、今日も頑張ったね。どんなにか歯がゆく苦しいことだろう。直ちゃん、家族に迷惑かけてるって思うだろうね。でもみんな直ちゃんが生きていることを感謝しているよ。そう思おうよ。そう思っていいんだと、とても励まされる文章に出会った。直ちゃんにも読ませてあげるから、もう少し頑張ろうね。

3月29日

直ちゃん、今日はどんな辛いことがありましたか?どんな痛いことがありましたか?ほんの少しでもほっとするひとときがあるといいね。私はカートを押して西友に行ってきたよ。いろいろ買い物をしてお金をいっぱい使ってしまった。まあね、ない時はない時で辛抱すればいいもんね。

沖縄のコロナ感染者がとても多くなってきた。島の人たちかな。それとも観光客のせいかな。そうだとしたら、本当に申し訳なく思う。沖縄の人たちは分け隔てなく、自分以外のものを受け入れてくれる。その包容力は想像外だと思う。琉球時代から先の戦争の時も、沖縄は最前線で犠牲になってきた。古い話しは分からないけど、あの戦争の時のことは島の資料館でもオジイやオバアたちから、直接聞くことが出来る。

沖縄にはガマと呼ばれる自然豪がたくさんある。観光になっているところもあるけれど、ひっそりとそこにある。私がしばらく住んだ北の方の離島にも、そんなガマがあった。時々その中に入っていると、太陽の光が届かない奥の暗闇に、そのガマの中で、火炎放射器によって焼き殺されたたくさんの呻きが押し寄せてくるようで怖かった。

今でも壁の土を掻き進むと人の骨が出てくると聞かされた。上陸した米軍に追い詰められて逃げ込んだその豪に火を放ったのは日本兵だったと聞く。赤ん坊の泣き声で見つかるから、首を絞めろと母親を脅したのも日本兵だと聞くと、鳥肌が立つ思いだった。そんなことは作り話だと言えない自分がいる。人間、自分の命を守るためにはどんな残忍なこともする。アウシュビッツの収容所を見た時も私は震えながらそう思った。私も、同じ条件で同じ環境に置かれたら、間違いなく同じことをしただろうと思う。そう思う自分が怖い。

今は平和か?戦争をしていないから?そこに毅然と返事ができないから。私だって平気で人を殺してきた。がむしゃらに自我を押し通し通す時、人はそれを正義と勘違いして他人の心を殺す。愛だと言い張って人の心を殺す。

身長よりも高く積もった雪がすっかり消えた。いったいどこに消えたのだろう。どうして大洪水にならないで、すっかり消えてしまうのだろう。雪国に住んで50年、毎年同じことを考える。日本の下水道が優秀なのかな。それとも地球の包容力が途方もなく大きいのかな。直ちゃんならちゃんと教えてくれただろうに。直ちゃん、どこにいるの?

3月28日(日)

一つの別れがあった。30年来の教会の友。転勤での別れだった。彼が北海道の大学に入学することになって、牧師と共に空港に出迎えたのが最初だった。牧師とその彼の父親が親しい間柄だったようだ。あれからもう30年経ったのか。その時の牧師も天に召され、私も80を超えた。

どんな別れも物悲しい。今日は物悲しい日だった。悲しいというのと物悲しいというのとでは、なんか悲しさの質や量が違う。物悲しいという方が余韻がある。余韻は実存していないものだから、ただ悲しいと言った方が悲しさを表すのにはいいのかも。

30年は長い。大学生だった彼は結婚をして子どもをもうけ、転勤も何度かして共に教会生活をしたのは、それほど長くはない。ただ、私が老いの道連れに、次々と病気や骨折の苦難を生きたこの三年くらいは、彼とその奥さんにとても助けられた。若い力は心身ともに大きな力だ。頼りになった。親身な存在だった。

去年の秋、彼は私を大きな自然が残っている空間に連れていってくれた。ああ、この札幌にこんな手付かずの自然があるんだと感動をした。足も目も悪い私を気遣ってくれて、綺麗な落ち葉をたくさん拾った。今度は桜の季節に連れていってくれると約束したけど、桜が咲く前に転勤で行ってしまった。

人間の明日というものがどれほど不確かなものか。そして儚いものか。そして物悲しいものか。桜の花は毎年咲く。今年の桜は見られそうだけど、次の年も同じように来るわけではない。花見が出来るとは限らない。時間とはなんて物悲しいものか。

桜は儚さの代名詞のように使われるけど、桜は散っても次の年には又咲く。花よりもっと切なく儚いもの、それは人の命なのかもしれない・・と、今日思った。

 

 

 

3月27日

NHKの教育番組に「百分で読める名著」というのがあって、とても面白い。「心の時代」という宗教的な番組もとても面白い。今日の名著は「14歳からの哲学」という本だった。早世した女性哲学者のものらしい。こんな本に若い頃に出会いたかった。そうしたら私はもっと生きやすかっただろう。

私の記憶にある最初の本は、疎開をした母の実家、その家の書斎の本棚だ。母の父親つまり私のおじいちゃんは学問のある人だったらしい。昔は応接間というのがあった。応接セットというのがあった。おじいちゃんは怖かったから応接間になど入れなかったし、本はほとんど漢文だった。その本棚にあった黒い革表紙の小さな本が、なぜかずっと気になっていた。それが聖書だったことを何かの拍子で知った時、嬉しかった。あの本を大事に持っていればよかった。きっと昔の文語で書かれたものだったに違いない。

母に教会に行ったことがあるの?と聞いた時、母はあるよと答えた。それは興味深いことだけど、クリスマスに近所の子供たちがたくさん教会に行ったと言う。お菓子とお人形を貰えたんだよと母は言った。教会はいつの時代にも、そうやって伝道の種まきをしていたのだろう。何十年もの時を経て、私たち一家はクリスチャンとなり、私の息子は牧師になった。

母がいうお菓子とお人形の種が、小さな花をつけて実になったと思うべきか?そうなら、私たちももっと種を蒔かなくては・・。何故か素直にそう思う自分に驚く。

直ちゃん今日はどんなリハビリをしたの?辛かった?痛かった?私は今日、何もできないで横になっていた。こんなふうに体力も気力も衰えていって、未知の世界へと旅立つのか。そう言えば、テレビドラマで幼稚園の子どもたちが卒園式で「旅立ちの歌」を歌っていた。ちょっと違和感があった。いや、とても違和感があった。いくらテレビドラマでも、選曲ミスですよ。ね?

3月26日

うちのトイレはちょっとユニーク。他の家にはないものがある。小さい団地サイズのトイレだけれど、壁に書き込み付きのカレンダーが貼ってある。このカレンダーは、忙しくて顔を合わせて話すことが出来ない娘との連絡ツール報告ツールにもなっている。この大型カレンダーを使うようになって、四年くらいになる。娘が細かく記入してくれるのを読むのがとても楽しい。

このカレンダーは、忘れてしまいがちな日記代わりにもなる。狭い壁に去年と一昨年のカレンダーも貼ってある。だから去年の同じ日に何があったか、一昨年の今日は何をしていたか。読み比べるととても面白い。振り返って足跡を眺めるのが、いいことかどうかわからないけど、確かに生きてきた時間を思い起こせるので、しみじみと感謝する時でもある。

このコロナが侵入してきたのも、記録してある。救急車で搬入された日も思い出させてくれる。人間の記憶は、こんなふうに文字にして記録しなければ忘れ去られるほどに脆いものなのか?記憶が脆いということは、生きている時間の重さが思ったほど貴重ではないということなのか?過去は過ぎ去ったこと。今だけが実感ある現実なのか。掘り起こして味わい直すほどのものではないのだろうか。テレビを見ていたら、「なたには取り戻したい過去がありますか?」という言葉があった。

例えば、10年前の地震津波で一瞬の内に家族を奪われた悲しみは、時間と共に薄れるだろうか?目の前の事故で愛するものを失ったら、カレンダーを見なければ思い出さない過去になるだろうか。

つまり、私の心を支配する喪失感は、文字にして刻み続けなければ忘却できる程度のものなのか。忘れることが出来る程度のものなのか。過去にしがみついているのは、その思い出を甦らすことで、自分の鼓動を感じて生きていたその頃のことを、支えにしているということか?

札幌の積雪ゼロが発表された日。今年の冬は終わった。

3月25日

ディサービスに行く。送迎車は、その日によっては三人また違う日には四人をpickupして運んでくれる。私のルートは、私の懐かし場所を通って一人の方を乗せる。とても懐かしい道だ。もう20年も経ってしまった。ある老人ホームに入居していた教会の先輩を看取った。たまたまの出会いだった。その方は道東の教会、私は札幌の教会。大きな合同行事で見かけたくらいの人だった。

いい出会いだった。今なら、家族でもあんな時間を持つことは出来ないだろう。その人を通して、私は人間の老いという現実をつぶさに見た。最終的に私は毎日そのホームを訪れた。ほとんどその人は眠っていた。私は起こさないようにそっと傍に座る。年寄りの眠りは浅い。すぐに目を覚まして必ずこう言った。

あら、今お迎えが来ていたんだよ。誰かがお迎えに来るらしい。ごめんね。私が邪魔してしまったね。ううん、引き戻してくれてよかった。それが本音だったのかどうかはわからない。でも、自分がその人と同じくらいの歳になって、どっちも本当だったのだろうなと思う。お迎えを待つ気持ちも本当なら、引き戻されたことを喜ぶ気持ちも本当。

お迎えに来る人はいつも同じではなかった。不思議だなと思った。そのお迎えは、話の中で主役のおかあさんやご主人ではなかった。その人は夜中の三時ころ静かに召されていった。あの時お迎えに来たのは誰だったのだろうと、時々思う。そして私を迎えに来てくれるのは誰なんだろうと。

その人の思い出と共に、ディサービスの車はすっかり雪が溶けた歩道を走る。

3月24日

直ちゃん、今日も終わったね。きっと朝から晩までリハビリが続いているのだろうね。辛いだろうけど、今の理学療法というのはすごいradicalだから、しがみついて頑張ってね。人間の潜在能力は、私たちの理解や想像を遥かに超えている。それを私たちは何とよぶのだろう。パラリンピックの選手たちの運動能力は驚嘆するよね。それはどれほどの努力の結果だとしても、百人が百人、同じような結果が出るとは限りない。運もあるのかもしれない。出会いも結果も、きっとそれぞれの人間にプログラミングされているものなのかもしれない。でもそうなると、人間の努力は意味がなくなってしまう。そうではないね。最後の最後は人間の意志を超えた意志、そういうものがあるように思う。

直ちゃん、私はこの頃前にもまして自分の死について考えるよ。どういう死が用意されているんだろうって。死を免れることはできなくても、死の形を希望することはできるといいね。

今日は夕礼拝があって隣のチャペルに行ってきました。神さまと私の関係は、繰り返し説教で語られる。だけどこの世に生きるもの、私たち人間の生きるところに、その神さまがどう関わっているのか、私たちはどのように隣人と関わっていけばいいのか、それがあまり伝わらない。

この小さなアパートの中に、礼拝だと知っていても出てこられない人がいる。病気なら仕方がないけれど、心を頑なに閉ざして出てこない人の姿を思うと、礼拝をしていてもたまらない気持ちになる。この人間の深い闇、耐え難い罪の縄目。目の前にイースターがくる。イエスさまが、心の扉を開けてくださることを信じて祈った夜の礼拝だった。