3月28日(日)

一つの別れがあった。30年来の教会の友。転勤での別れだった。彼が北海道の大学に入学することになって、牧師と共に空港に出迎えたのが最初だった。牧師とその彼の父親が親しい間柄だったようだ。あれからもう30年経ったのか。その時の牧師も天に召され、私も80を超えた。

どんな別れも物悲しい。今日は物悲しい日だった。悲しいというのと物悲しいというのとでは、なんか悲しさの質や量が違う。物悲しいという方が余韻がある。余韻は実存していないものだから、ただ悲しいと言った方が悲しさを表すのにはいいのかも。

30年は長い。大学生だった彼は結婚をして子どもをもうけ、転勤も何度かして共に教会生活をしたのは、それほど長くはない。ただ、私が老いの道連れに、次々と病気や骨折の苦難を生きたこの三年くらいは、彼とその奥さんにとても助けられた。若い力は心身ともに大きな力だ。頼りになった。親身な存在だった。

去年の秋、彼は私を大きな自然が残っている空間に連れていってくれた。ああ、この札幌にこんな手付かずの自然があるんだと感動をした。足も目も悪い私を気遣ってくれて、綺麗な落ち葉をたくさん拾った。今度は桜の季節に連れていってくれると約束したけど、桜が咲く前に転勤で行ってしまった。

人間の明日というものがどれほど不確かなものか。そして儚いものか。そして物悲しいものか。桜の花は毎年咲く。今年の桜は見られそうだけど、次の年も同じように来るわけではない。花見が出来るとは限らない。時間とはなんて物悲しいものか。

桜は儚さの代名詞のように使われるけど、桜は散っても次の年には又咲く。花よりもっと切なく儚いもの、それは人の命なのかもしれない・・と、今日思った。