3月10日(木)

木曜日はアパートに隣接している小さな礼拝堂で、近隣の信者が集まって夕礼拝がある。この礼拝堂つきアパートを建てた教会から、牧師が来て礼拝を司る。私は札幌で洗礼を受けて以来、ずっと札幌の教会で礼拝を守る。この二つの教会は同じ根を持つ。キリスト教典礼として形を作り、広めてきたのがカトリックだ。誰でも記憶があると思うが、中学生の歴史の授業で宗教改革というのを学んだ。マルティンルターという神父が、救いをお金や行いで買うように、堕落し形骸化した教会に52箇条の質問文を書き城教会の門に張り付けたのが、プロテスタントの始まりだ。ルターは決して抵抗し反逆をしたのではない。質問をしたのだ。

けれど結果、プロテクトするものとされた。それまで結婚を禁じられていた神父が結婚もできるようになった。ルターはシスターだった女性と結婚をして、精力的に伝道を始め、ここにルターの名を冠した福音ルーテル教会が誕生した。

どの世界でも同じだと思うが、長い時代の中で枝葉のところが違うと言って、たくさんのプロテスタント教会が生まれた。ルーテル教会も宣教のルートの違いで、根っこは同じでも兄弟教会が生まれた。私の今の状況はまさにそのど真ん中にある。牧師は同じ神学校で学んだのに、その説教に微妙な違和感を覚えながら、私は今枝分かれをした二つの礼拝で祈っている。

外国に行った時も言葉が理解できなくても、教会を探して祈りの場で自分の心を保った。多分、教会礼拝堂という空間が、私にとってこの世でたった一つの場所なのだろう。

だから、私は、今、幸せなのだ。しあわせ。しあわせ。