3月1日

直ちゃんと私は、初めての子どもを同じ歳に授り、二番目の子も同じ歳に生んだ。私は一男一女で出産を終えたが、直ちゃんはさらにもう一人もうけた。上の二人が女の子で最後に男の子が与えられた。

高校、大学をまっすぐに進み、きっとそれが彼女が最初からの目標だったのだろう。中学の英語の教師として、三人の子どもを学童保育を上手に使いながら、定年まで勤め上げた。

小学校の卒業アルバムに「将来の夢」を書き残すページがあったが、私はそこに「おかあさん」と書いた。それしか道が見えなかったのか、環境が選択肢を選べなかったのか。思い返してもはっきりした事由は分からない。みんながスチュワーデスとか花屋さんとか、きれいな夢を描く中で、おかあさんというのはあまりにもビジョンが貧しい。直ちゃんはそこに何と書いたのだろう。すでに先生と書いたのだろうか。聞いたことがなかった。聞いておけばよかった。

子育てに集中できなかったことで、なんらかの引け目を持った時期もあったようだ。そんな時、私は意地悪にも思ったものだ。子育てを甘く見てるからだよ。心の中でそう思った。

けれど、更に更に時間が過ぎて、私たち二人の人生は途切れることなく続いてきた。その時間はもう70年になる。

彼女は幼い頃に父親を亡くし、母親が保険の外交をしながら三人の子どもを育ててくれた。当然、一番上だった彼女がお母さんがわりだった。そういう環境で大人になった人、芯の強さはそうやって作られてきたのだろう。

私は豊かではなかったが家族思いの父と従順な母、賑やかな子沢山の家庭で平凡な大人になって、平凡な人生を平凡に甘受して生きてきた。

その私が自分の人生を逸脱して、迷路に彷徨い出したのは何故だったのか?