3月13日

今日は母の命日だ。もう一人、母のように接してくれた愛子さんという人が、一年違いの同じ日に天に召された。二人の母の記念日が同じというのが、何故か心に染みる。

母、それは懐かしいだけの存在ではない。悲しいし切ないし怒りもある。私が中学生の時、母が胃癌の手術を受けた。手術をしてもしなくても、半年の命だと宣告された。父がその宣告を姉と私に伝えた。6人の子どもを抱えて、父は私たち二人に母の代わりをするようにと言いたかったのだろう。母は術後の肝炎など、何度も入退院を繰り返したが、結果として90歳をはるかに超えて長生きをした。今で言えば誤診ということだろう。ありがたい誤報だった。

私はその時、人間の死というものを恐ろしいほどの重さで知らされた。中学生の私は、その時から母には箸以上の重いものを持たせないと決心した。姉は父と折り合いが悪く、早々と自活の道を進んだ。(そして若くして亡くなった)私は母を守ることが人生の目的になったし、生き方の基本でもあった。母は晩年こう言った。私はあんたを自分の子どもだと思ったことがない。いつも私のおっかさんだと思っていた。

悲しかった。それこそが、、私の生きてきたことそのものだったにも関わらず、私は一人泣いた。

母はだんだん健康になり、力を妹たちへの愛に注ぐようになった。なんと、妹に晴れ着を着せ、足袋にアイロンをかけたりするようになった。嫁いだ妹たちが帰省すると、みんなをそばに侍らせて、私を手伝おうとする妹たちをとどめた。

昔の大きな屋敷だった実家は、今のように暖房が完備していない。私も結婚をして身重だった時、ガラス戸の向こうで談笑をする母と妹たちを見ながら、底冷えのする台所で、私は泣いた。そんな生活の果てに、私が母に優しくなれなくなっていた。

ついに、たった一人の男の子として尊重されていた弟と一番下の妹が、私を母から引き離すことを宣告し、私は母の家にも出入り禁止となり、母が亡くなるまで6年という年月、母に会うことも許されなかった。冷たくなった母に会った時、私はもう泣きはしなかった。

結局、葬儀が終わった夜、弟から遺書を預かっていると言われ、実家である大きな家と土地の相続権を主張された。実は私も母から自筆の遺書をもらっていた。けれど、もう嫌だった。こんなことまでしてこの子たちは遺産が必要だったのか。お金が欲しかったのか。もう嫌だった。愛しんで、病弱な母に代わって育ててきた時間が実感を持てない虚しいものになった。

今、私は娘の世話になって小さなアパートで暮らしている。年金が少ない。月に24000円しか私のお金はない。それは病院と薬代、介護保険でレンタルしている手すりなどで消える。

母の命日だ。母はこんな私を見ているんだろうか。どうでもいい。ただ、これから私は死ななくてはならない。お金をかけず、これ以上娘に迷惑かけないように死にたい。

おかあさま、最後のこの願いを導いてください。そうしたら、またあの世とやらで、昔のように、一卵性の親子と言われた頃のように、仲良く暮らしましょう。おなたは母、私は娘として。