3月5日

もう目の前に、シルバーカーを押して歩ける道路が見えてくる。そう思うと、そのほんの少しの辛抱をしなかったら、この一冬の忍耐が台無しになる。そう思うと、真冬には果敢に挑戦していた外歩きに、強いブレーキがかかって外への一歩が踏み出せない。それが一ヶ月くらい続いている2月だった。人は目標に手が届きそうになると、慎重になる。この本能的な自衛力がきっと人を生かし続けるのだろう。

それでも、これでいいのか?という悪魔の誘いに負けて、私は今日外に出た。積もりに積もった雪の山がずいぶん溶けて、マンホールに空いている数個の穴から、ゴーゴーとものすごい音が聞こえる。札幌の地下水道はどんなふうになっているのかな。

パリの地下水道を逃げるジャンバルジャンを思った。オペラ座の怪人のことも思った。パリの地下水道は有名だから、物語の舞台になるのだろう。札幌はどんなかなあ。私の不注意はいつもこの妄想に引きづられて、足元の危険に足を掬われる。あぁー春を目の前にして、とうとう私は転んだ。転んで2回骨折し、その後遺症に今も苦しんでいる。転ばないこと。これが私に課せられたたった一つの戒めなのに。転んでしまった。

場所はスーパーの裏口のすぐそば、びしょ濡れのまま、尻餅をついた私はうんともすんとも動けない。それは家の中でも同じこと。脚力がなくて自分の力では立ち上がれない。なんとか這って入り口まで行かなくては。雪の中で這おうと思っても、悲しくて力が出ない。しばらく、どのくらいだろう。3分か4分くらいか。若いお姉さんが走ってきて、大丈夫ですか?助けてください。起こしてください。お姉さんはいろいろしてみて、背後から腕の下に手を入れて立たせてくれた。思わず涙が出た。手際のいい対処だった。ありがとうございます。

幸い骨折はないようだ。打撲の痛みは数日経ってから出るだろう。でも、生きて帰宅できた。帰る道は、もう地下水道の音も耳に入らなかった。